【感想】映画モノノ怪 唐傘

モノノ怪の世界観大好きマンが唐傘についてべらべら語ります。

去年あわせて何回か見てたんだけど今日ようやく言葉で感想が伝えられそうだから語ります。

すごく本編のネタバレが含まれています。


作品自体かなり難しかったので、これを見てから唐傘を見るのもおすすめですし、唐傘見てからこれを見るのもおすすめです。


全部私の考察でしかないことだけ忘れないでください。






「唐傘お化け」とは?

該当妖怪の出典は古いもので室町時代の絵巻物『百鬼夜行絵巻』にあるが、具体的にどういった妖怪かという話はほとんどなく、いわゆる付喪神の一種という話もある。

たとえば一つ、口頭伝承にこんなものがある。


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新潟県笹神村(現・阿賀野市)の伝承では、三十刈という場所にカラカサバケモン(唐傘化け物)という妖怪が出たと伝わっている。
1762年(宝暦12年)の浮世草子奇談集『咡千里新語(ささやきせんりしんご)』収録の「三之巻 第一 茶碗児(ちゃわんちご)の化物」に、奈良県の興福寺の伝承とされる7種類の妖怪の一つとして「南部興福寺にいろいろの化物あり 東花坊(とうかぼう)のからかさ」と記述がある


(wikiwandより引用)

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唐傘お化けは見た目のキャッチーさからキャラクターとして愛される妖怪としての側面が強すぎる。






「モノノ怪」ってなに?

モノノ怪という作品はミステリーの末に引きずり出てきた妖を主人公「薬売り」(本名不詳)が変身してぶったたく、割とバトル爽快の作品だが、この薬売りさんが変身する条件は三つある。


形と真と理


形とは、妖の名。つまり今回の妖がどういった妖なのかを当てなくてはいけない。

真とは、事の有様。どうして妖がとりつくことになったのかを知らなくてはいけない。事件の詳細。

理とは、心の有様。これが一番難しい。


理はシリーズ通して(なんなら小説も)複雑怪奇であることが多い。一口では言えない、それを表す言葉がないような。ここに妖がとりついてしまう。


ただ、このとりつき方には「モノノ怪」という作品がものすごく出る。


普通爽快なバトルもの、少年漫画とかになると悪はとても悪になる。この妖の部分はとりついた物の意思など関係なく悪行の限りを尽くすが、モノノ怪は違う。

特に監督のストーリーが紡ぐモノノ怪は違う。


あくまでもとりついた物の「情念」に従い、力を貸していることが多い。


例えばお腹いっぱいにご飯が食べたい貧しい人がいたとして、

この貪欲な気持ちが強すぎたときに適応する妖がとりつくと、貧しい人はどんな手を使ってもお腹いっぱいご飯が食べられるようになる。


たとえ盗みを働いてもそれで人死にが出ても働けなくなっても、ずっとご飯が食べられるようになり、やがて本人の体がぶくぶくに太っても健康を害しても「ご飯が食べたい」という願いを叶えるために妖は頑張る。

ただこの妖が悪いというとその限りではなく、このご飯が沢山食べたい妖、とりつくとしたら「食に問題がある妖」がとりつくという話になるのだ。


例えば饕餮(とうてつ)のような、大食いかつ財を蓄えるのを心底好む妖。


例に挙げた饕餮は「食や財に貪欲で貧しい人達に分けない奴」といわれのちに偉い人が辺境の地に追放している。

財にすらも貪欲な饕餮が素行の悪さで饕餮の望まない「追放」という形を取られたら饕餮の貪欲な性質は尚更ひどくなるだろう。


想像するのも苦しい欲深い妖怪が「ご飯が食べたい」という願いを持つ人間にとりついたら目も当てられない悪さをする。当然する。饕餮はその手伝いをする。

その手伝いを受ける「お腹いっぱいにご飯が食べたい貧しい人」はその間だけ安心する。


これがモノノ怪という作品で行われる悪行である。


とりついた物を通して妖も抱えているその恨みを晴らしたり、妖のやりたいことを叶えるので関係性としてはWINWINになっている。


薬売りさんは生業としてモノノ怪を祓うが、妖を嫌っているわけではない。

取り憑き「モノノ怪」として悪さをするようになることは問題だが、妖も辛い過去があるから人の情念に結びついて取り憑いてしまうのだ。


このすべてを通して切ない話を、薬売りさんが変身して天変地異おきながら時には空が荒れ海が荒れ時空がよくわからんことになっても大剣を振り回してモノノ怪をぶった切るのがいいのだ。






今作の「理」について

映画「モノノ怪 唐傘」に出てくる唐傘は「大事なもの」の形をしている。


作中では、大奥内に出現する唐笠の姿はすべて、登場人物が井戸に捨てた大事なものの姿をしていた。例えば鞠、例えば万華鏡、例えば櫛、井戸に捨てた人形。


すべて仕事をするのに必要のない形をしているが、これはすべて登場人物にとって大事なものだった。幼少期から共に遊んでくれたり、大事な人が息災であれと願って渡したりしていたはずだった。


それを作中では大奥に入る一番最初にすることとして「捨て」させている。


雨が降ったら傘をささなくちゃいけない。

生きてゆくのに傘を持つのは大事なのに、仕事のために傘を捨てる姿は見ていておかしいとわかるだろう。


「捨てられる物は形があるものとは限らない」


作中で歌川様が(確か)話していた言葉だった。

これは、アサちゃんがカメちゃんのことを「大事なもの」と思っている伏線であり、大奥で働いている女中すべてが「大事なものとして捨てられる」側になりうることの伏線でもある。


みんな傘を使う者である歌川様に認められたかった。


だから仕事を全うするし、ちゃんと出来ないとイラつく。

自分より劣っていると思っている人が求められているのを見ると嫉妬でどうにかなりそうになる。

捨てられると思うと、怖くなる。


大奥に入るときに「唐傘」を捨てさせられた北川様は、大奥という激しい仕事場で仕事に熱心になったあまりに、仕事に熱中するために同期だった子を暇に出させ、大奥を去らせた。


大事なものを捨てれば仕事ができる。

仕事ができれば上司たる歌川様に認められる。

そうして頑張って、頑張って、頑張って、

とうとう自分を見失ってしまい、乾き切って、何も出来なくなってしまった。


ご祐筆という素晴らしい身分だった北川様はのちに部屋から一歩も出られなくなってしまう。


満たされたい、乾いてはいけないというのは例えば承認欲求や誰かに大事にされたい、大事にしてほしい、私はこれだけできるという自己顕示欲。

もっとそれ以上に、一言では言い表せない心を大事にしろというメッセージなのかもしれない。


アサも仕事のため、本人のことを思ってカメちゃんを暇に出してしまう選択をする。

これがのちに「大事なものを井戸に捨てる」という表現としてカメちゃんが井戸に落ちるように見えるシーンが出てくる。


大事なものを捨てるとき、大事なものも、大事な持ち主を捨てている。


アサちゃんはカメちゃんに嫌われてしまうと怯えたかもしれない。

井戸に落ちたように見えたカメちゃんが、アサちゃんになるシーンが来る。

井戸に落ちるアサちゃんをカメちゃんは必至になって落ちないようにつかんでいるシーンがある。


部屋から出られなくなるほど気分の落ち込んだ北川様はのちに井戸に落ちて死んでいた。

井戸に落ちるとき、北川様は仕事をしていたときのような強かな顔をしておらず、空に舞って遊んでいる傘を幼子のように笑って追いかけていた。


自ら井戸に飛び込んでしまうのはとても恐ろしいことだとおもう。


大事なものが物だけではなく人としても適用され、それが捨てられたり使われたりそこに嫉妬したりしなかったりという情念が渦巻く渦中にいたのが歌川様である。


歌川様は仕事ができればいいというお考えの人だろう。

相応にできれば地位をきちんと与える上司として尊敬できる人格の持ち主だと思っているが、今回の話に当てはめれば彼女こそが唐笠を持つものであり、捨てる人になるのだ。


唐傘が歌川様を執拗に襲ってしまうのは、死んでしまったものたちの執着心と、どうしても歌川様に認めてもらいたいという心からだったと考えている。


作中で唐傘が人を殺したシーンとしては最初に「自分の地位に納得がいかず、もっと認めてほしい、仕事ができると思ってほしくて部下の女中を襲っている」ときと、「カメが問題行動を起こしているのは自分の地位を引きずり降ろして優位に立ちたいと思っているんでしょうという被害妄想」が出ているときだった。


どちらも労働者として使われているものの言葉である。カメちゃんを襲っているときに出てきていたが、感情の付け根にいるのは歌川様だ。


捨てられた大事なものは、大奥で働く女中の「認められたい」という思いと情念に共鳴し唐傘がとりついた。

これが、映画「モノノ怪 唐傘」での理だと推察している。






世迷言

ずっと独り言をしていてこれからも独り言をべらべら書くわけなんだけど、


去年(2024年)にとあるサーバーで童話を書こうという会をしていて、私はその時に「大事なもの屋さん」というのをかいたのを思い出してしまう。


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大事なもの屋さんが 大事なものを うるのは
だれかの あつかえない 幸せを
べつの だれかに わたすことで

また 幸せに なって

てばなされた 幸せも かなしいものに ならないと おもったから

はじめた こと でした


(私の作品)

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私が「物はできるだけ大事にするべきだ」という思いでいるようにしたのは、昔に、東 直子 さんという方がかかれた「とりつくしま」という小説を読んだことがきっかけだった。


話の内容としては、死んでしまった主人公に未練があったら、思い浮かぶ物にとりついて死後に遺してしまった誰かのことを見ていられるというファンタジーなものだった。


小さい小説だったけど、そこからさらに短編集となって小さい話がいくつか載っていて、

5ページ前後の小さい話が全て切なくて、ページをめくるたびに胸の苦しさに涙がでてきたのを今でも覚えている。




いつか誰かの大事なものだった傘は、捨てられた時どんなことを思っただろう。

唐傘お化けの伝承に捨てられた傘についてなにも書いてないのかなとちょっとだけ(まじでちょっとだけ)調べたけどそもそも伝承がない。

出典がよくわからないサイトでは「捨てられた唐笠に怨念が宿った」とか書いてあった。


大事なものとして、大事にされていたのに捨てられたら悲しい思いをすると思う。


作中では捨てられた物の中には鞠や万華鏡など、「いやこれ子供の時からずっともってたやつだろ」っていう大事なものが捨てられていく。

歌川様の唐傘の一つとして頑張っていた北川様は、つらい思いをされながらも、「歌川様を恨んでおりません」と(アサちゃん経由で)伝えていた。


人を使う立場の人だって人間だ。切り捨てるたび何も考えていないわけがない。

傘も持ち主も嫌い合っていないことが僅かな優しさだなと思う。


作中で井戸に落ちるみんなが叫ぶシーンがある。

見るたびいつも鳥肌がたつ。

聞いているだけで泣き出したくなるほど辛い叫び声が、劇場の壁を叩いている。


この話が聞けてよかった。次の火鼠の話が楽しみです。

唐傘が捨てられた物に取り憑いたお話でした。

行雲流水

「こううんりゅうすい」 ありのまま私の思いついた作品を投稿したいという思いで名づけます。

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